牧野 信一その2

 彼は台所の囲炉裡端で、茶を喫むやうな振りで酒をあふりながら、私に賽コロを持つて来さすと、器用な手つきでそれを振つては独りで考へ込んだ。そして人の気はひがすると慌てゝ私と双六の勝負を争つた。私も実は、彼とそんな勝負事を争ふよりも、温泉場へ来ると皆なが何となく呑気になつてゐて別段に早寝を強ひもしないので、智慧の輪や達磨落しなどを運んで、さも/\無邪気な遊びに屈托してゐる態にして夜を更したがつたのであるが、そんな遊びよりも、合間々々の岩吉の途方もない戯談の方が面白かつたのである。――私が未だに、母さんと一処に寝るさうだが、それはとても可笑しいことだとか……母さんが何んな夢を見るか当てゝ見ようか――とかと云つて私を気味悪がらせたり、憤らせたかとおもふと、
「もう、そろ/\蒲団部屋を覗きに行つても好い時分ですぜ。」
 と誘ふのであつた。爺さんが旅館の酒を好んで、つい滞留しがちなので山の家から岩吉が迎へに来てゐるのであつたが、私たちにしろ華やかな宿屋の方が珍らしいので容易に引上げたがらなかつた。私は、岩吉と遊ぶのはたしかに悪事だといふ気はしてゐたので、嫌ひだとでも云はなければ不首尾になりさうで悪口を云ふ傾きでもあつた。然し、面白くはあつたが、彼の人物を好いてゐないのは確かでもあつた。
「屹度もう居眠りがはぢまつてゐますよ。」

 天井の隅に、小さい四角な陽がひとつ、炎ゆるやうにキラキラと光つてゐた。湯槽の上の明りとりから射し込んだ陽が、反対の壁にかゝつてゐる鏡に当つて、其処に反映してゐるのだつた。
 純吉は、先程から湯槽に仰向けに浸つて、悠々と胸を拡く延しながら、ぼんやりとその小さな陽を眺めてゐた。――快い朝だ、と彼は沁々と思つた。……帰省して以来間もなく一ト月にもなつたが、その間、何といふ懶い日ばかりが続いたことだらう。
 秘かに想ひを寄せてゐた照子は、勝ち誇つたやうに嫁いてしまつたし――加けに高を括つてゐた学校は落第してしまつたし、……。
 そんなことを思ふと口先だけでは勢ひの好い虚勢ばかりを張つてゐるものゝ内心は至つて臆病な彼は、折角の若い日も滅茶苦茶になつてしまつた気がして、暗然とした。これが動機となつて意固地な運命は何処まで暗い行手を拡げることだらう……転々と、底の知れぬ程深い谷底へ、足場もなく転げ落ちて行く一個のごろた石に、われと自らを例へずには居られなかつたのだ。

牧野 信一

 去年の十二月のはぢめ頃だつた。
 あたゝかく、風のない朝、十時時分、僕は蜜柑山の芝のスロウプに腰かけて、海を眺めてゐると、絵かきの朝居閑太郎が、僕の妻に案内されて、僕の前に立ち、情熱のこもつた息苦し気な調子で、そして対者に遠慮する微笑を浮べて「エカキが――」と云つた。続く言葉は解つてゐるのだが、息せき切つて駆けつけた伝令兵のやうに声が出ないといふ風なのである。そして、漸く発言した。……「エカキが長い間絵具を持たぬと、キチガヒになるとかと……」
 僕は閑太郎の眼を見て点頭き「閑太郎――」と唸り……そして妻に、吾々を得意とする町の文房具店に命じて閑太郎が望むがまゝの上等絵具をとつて呉れ――と云ふと、妻は、僕の肩からガウンを脱ぎとり、それにくるまり、何時も僕がするやうに、下のキヤベツ畑まで、「橇滑り」で滑り降り、村長の家へ電話をかけに行つた。
「それは好いね。」
 閑太郎は僕の姿を眺めて云つた。僕は、無性から、ドテラの代りに使つてゐるアメリカ、インヂアンのガウンを、村だから関はず内でも外でも着続け、帽子はあの鳥の羽根のついた冠りなのだが、
「僕も欲しい――」

わたしは誰にも云へぬ類ひの、人生上の苦悩を彼に向つて喋舌り過ぎたのである。若き日のわれわれが夢にも知らなかつた新しき苦悩に就いて深く語らひ、終ひには足どりも危ふくなつた変れる友をぶらさげて、月あかりの露路を運んでゐた時の彼の感慨は果して何んなものであつたか? わたしは夜更の夢にあらはれる笑はぬ彼のまぼろしに訊ねずには居られなかつた。もともと遅ればせのわれわれである限り、彼を語るのは今後の日に多いとわたしは思つて居り、また人生を計算することに於いてのみ共通的とも云ふべき不得意さに恵まれて来たわれわれの交遊は今後の行手に徐ろに招かれて来るだらうと、わたしは思つてゐるのだ。古き友の楽しさを、わたしは彼に依つて経験した。彼はデカダンへ傾くことなどは努めても成り得ようもなく、童心に満ちたるピユウリタンであることは二十年前から変らず、次第にそれが大らかになつてゐるやうである。

 一九三四年、秋――伊豆、丹那トンネルが開通して、それまでの「熱海線」といふ名称が抹殺された。そして「富士」「つばめ」「さくら」などの特急列車が快速力をあげて、私達の思ひ出を、同時に抹殺した。帝国鉄道全図の上から見るならば、僅々十哩? 程度の距離であるが、生れて四十年、東京と小田原、小田原と熱海の他は滅多に汽車の旅を知らぬ蛙のやうな私たちにとつては、憶ひ出の夢は全図の旅の夢よりも深く長かつた。私たちは旧熱海線の小田原町に生れ、私の最も古い記憶に依ると、小田原ステーシヨンの広場のあたりが祖父母や母と共に私が育つてゐた家の竹藪に位ひした。私は未だ小学校へも通つてゐなかつた。
「近頃は、どうも人車つてえ便利なものが出来たんで熱海行はすつかり楽になつたが。」
 熱海行の朝(私の記憶では、蜜柑の穫収れが済んだ頃だけがあざやかであるが――)といふと、私たちは暗いうちに起きて竹筒ランプの傍らで朝餉に向ひ、祖父は自家製の酒を一本傾けながら、
「つい此間までは駕籠か草鞋がけだつたんだからな。それが何うも芝居見物にでも行くようなこしらへで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでもお午時分には着いて仕舞はうつてんだから大層なものさ。」