牧野 信一

 去年の十二月のはぢめ頃だつた。
 あたゝかく、風のない朝、十時時分、僕は蜜柑山の芝のスロウプに腰かけて、海を眺めてゐると、絵かきの朝居閑太郎が、僕の妻に案内されて、僕の前に立ち、情熱のこもつた息苦し気な調子で、そして対者に遠慮する微笑を浮べて「エカキが――」と云つた。続く言葉は解つてゐるのだが、息せき切つて駆けつけた伝令兵のやうに声が出ないといふ風なのである。そして、漸く発言した。……「エカキが長い間絵具を持たぬと、キチガヒになるとかと……」
 僕は閑太郎の眼を見て点頭き「閑太郎――」と唸り……そして妻に、吾々を得意とする町の文房具店に命じて閑太郎が望むがまゝの上等絵具をとつて呉れ――と云ふと、妻は、僕の肩からガウンを脱ぎとり、それにくるまり、何時も僕がするやうに、下のキヤベツ畑まで、「橇滑り」で滑り降り、村長の家へ電話をかけに行つた。
「それは好いね。」
 閑太郎は僕の姿を眺めて云つた。僕は、無性から、ドテラの代りに使つてゐるアメリカ、インヂアンのガウンを、村だから関はず内でも外でも着続け、帽子はあの鳥の羽根のついた冠りなのだが、
「僕も欲しい――」

わたしは誰にも云へぬ類ひの、人生上の苦悩を彼に向つて喋舌り過ぎたのである。若き日のわれわれが夢にも知らなかつた新しき苦悩に就いて深く語らひ、終ひには足どりも危ふくなつた変れる友をぶらさげて、月あかりの露路を運んでゐた時の彼の感慨は果して何んなものであつたか? わたしは夜更の夢にあらはれる笑はぬ彼のまぼろしに訊ねずには居られなかつた。もともと遅ればせのわれわれである限り、彼を語るのは今後の日に多いとわたしは思つて居り、また人生を計算することに於いてのみ共通的とも云ふべき不得意さに恵まれて来たわれわれの交遊は今後の行手に徐ろに招かれて来るだらうと、わたしは思つてゐるのだ。古き友の楽しさを、わたしは彼に依つて経験した。彼はデカダンへ傾くことなどは努めても成り得ようもなく、童心に満ちたるピユウリタンであることは二十年前から変らず、次第にそれが大らかになつてゐるやうである。

 一九三四年、秋――伊豆、丹那トンネルが開通して、それまでの「熱海線」といふ名称が抹殺された。そして「富士」「つばめ」「さくら」などの特急列車が快速力をあげて、私達の思ひ出を、同時に抹殺した。帝国鉄道全図の上から見るならば、僅々十哩? 程度の距離であるが、生れて四十年、東京と小田原、小田原と熱海の他は滅多に汽車の旅を知らぬ蛙のやうな私たちにとつては、憶ひ出の夢は全図の旅の夢よりも深く長かつた。私たちは旧熱海線の小田原町に生れ、私の最も古い記憶に依ると、小田原ステーシヨンの広場のあたりが祖父母や母と共に私が育つてゐた家の竹藪に位ひした。私は未だ小学校へも通つてゐなかつた。
「近頃は、どうも人車つてえ便利なものが出来たんで熱海行はすつかり楽になつたが。」
 熱海行の朝(私の記憶では、蜜柑の穫収れが済んだ頃だけがあざやかであるが――)といふと、私たちは暗いうちに起きて竹筒ランプの傍らで朝餉に向ひ、祖父は自家製の酒を一本傾けながら、
「つい此間までは駕籠か草鞋がけだつたんだからな。それが何うも芝居見物にでも行くようなこしらへで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでもお午時分には着いて仕舞はうつてんだから大層なものさ。」